軌跡の年と呼ばれた1905年の6/30がまさにアインシュタインが相対性理論に関する最初の論文「運動する物体の電気力学について」をドイツの物理学雑誌『アナーレン・デル・フィジーク』に提出したその日だったのだそうです。
3/17に発表された「光電効果」は後にノーベル物理学賞受賞をもたらします。
その次の5/11に「ブラウン運動」を説明した論文により、原子の存在を認める物理学者が増えたそうです。
そして、6/30の論文で相対性理論について発表し、9/27の論文で「E=mc²」を発表することになります。
とても一人の人間の業績とは思えない仕事を成し遂げています。
当時アインシュタインはスイス連邦特許局の無名の技師だったのですが、定時に上がれるので研究時間が取れたから選んだとかなんとか・・・。天才エピソードに聞こえますね。

その後、なんやかんやで1930年代にアメリカに亡命します。その際プリンストン大学がアインシュタインを招聘しようとしたときのエピソードが結構好きなので紹介させてください。
プリンストン大学側はアインシュタインに年俸16,000ドルを提示しました。
しかし、アインシュタインは、お金にはあまり関心がなかったようで冷静にこう言ったと言われています。「いや、多すぎる。年間3,000ドルでいいんです」
プリンストン大学はここでどう考えたでしょうか?
皆さんだったらどうしますか?安く済むから3,000ドルでOKということにしますか?
プリンストン大学側はこの天才の計り知れない価値を認め、経済的な心配をすることなく快適な生活環境と仕事に必要なものを提供する必要があると考えて16,000ドルで合いシュタインを招聘することにしたのだそうです。
この後アインシュタインは様々な大学からより高額なオファーをもらいますが、自分に最適な環境を整えるために尽力してくれたプリンストン大学から他へ移ることはなかったそうです。
ちなみに1930年代の為替レートは1ドル=5円ですが、当時の銀行員の初任給が年間840円でした。これは年収約170ドルですから、アインシュタインの年俸16,000ドルはまさに破格ですね!