【授業を受ける心構え】100点の生徒も20点の生徒も同じ授業を聞いているのに・・・
授業を受ける心構えとしてお伝えしたいことは、「啐啄同時(そったくどうじ)」の思想を持つということです。
啐硺同時
これは仏教用語ですが、「啐」は鳥の卵が孵るとき、殻の中から雛がつつく音、「啄」は母鳥が殻を外から突き破ること。この二つが同時に起こり、雛が生まれ出るという意味です。
転じて師匠、弟子の働き(モチベーション)が合致した時に教えが身になる、という意味です。
授業の理解度や楽しさは先生の熱意と皆さんの積極性の掛け算。
どちらかが100%悪い、という現象はありえません。
杉並区立和田中学校で初の民間人校長として話題となった藤原和博さんが、著書の中で面白い話をしています。
生徒さんは学期ごとに通知表を受け取りますが、逆に生徒さんが学校の先生に通知表をつけるとしたらどうするか、というテーマです。
「体育は好きだから5」とか「あの先生は何か気に食わないから1」なんて付け方をしてはダメですよ。
かと言って定期テストのように分かりやすい基準もない・・・。
そこで、藤原先生はこう考えてはどうか、と提案します。
生徒さんが学校に通って勉強するのに、どのくらいのお金が掛かっているでしょうか。
先生はここでざっくりと「1000円」という価格を出しています。
そう考えると、先生は毎回の授業で「1000円分の価値を提供できているか」という評価基準が見えてきます。
さて、この1000円ですが、これはあくまでも授業にかかるコストの話です。この「コスト」に見合うだけの「価値」はどうやったら得られるのでしょう。
先生の質を上げればいい? 先生が授業を工夫すればいい? もちろんそれは大事なことです。
しかしもうひとつ大事な要素があります。
なぜなら授業は先生たちのおしゃべりだけでも、生徒さんの意欲だけでも成り立ちません。言ってみれば先生の努力と生徒さんの努力の掛け算で成り立っています。
先生が1000円分の授業を提供しても生徒さんのやる気が0だったら価値は0になってしまいます。逆もまたしかり(あってはいけませんが)。
例えば演劇鑑賞教室で、それこそ本来ならチケット代が10000円以上するお芝居を見たとしましょう。
Aくんは全く興味を持たずに居眠りしてしまい、Bくんは身も慄えんばかりの感動をしてその後芸能の道を志すようになった、などということもあるかもしれません。
Aくんがそのお芝居に全く価値を見いだせなかったのに対し、Bくんは10倍にも20倍にもして自身に返すことができました。
1000円の授業を2000円や3000円分の価値に出来るか否かは、どのくらい「主体的に」取り組めたか、にかかっているのではないでしょうか。
そう考えると、「先生に通知表を付ける」行為が、実は自分のやる気や学習態度が透けて見えることだと気づきます。
(参考図書:藤原和博著「たった一度の人生を変える勉強をしよう」朝日新聞出版)