【「面白さ」の本質】マンガを楽しむために勉強が必要だった(2022年1stメッセージ)
あけましておめでとうございます。
本年もどうぞよろしくお願いいたします。
※当学院は1/3まで休校となっております。
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室長が4、5歳頃の話。
5歳離れた兄が居間でとある本を見ながらゲラゲラ笑っていました。
しばらくすると父親も加わり、一緒になってその本を見ながら笑っていました。
ずいぶん楽しそうだなと思い、私もその本を手に取ってみました。
しかし私には、そんなに笑い転げるほどの面白さはほとんど感じられませんでした。
ページの大半は絵で埋まっており、色々な人が会話をしたり喧嘩をしたりボールで遊んだりしている姿が描かれ、その人たちの口元から雲のような図形が描かれ、その中に何か記号のようなものが時にはぎっしり、時には短く、太く書かれていました。
それが「マンガ」というものだと知るのはだいぶ後のことです。
確かに絵は面白い。
同じ顔をした少年がたくさん出てきて、やけに出っ歯なオジサンが変なポーズを取ってふざけている。
しかし、私には父や兄のようにゲラゲラ笑うほどの感動はありませんでした。
その時、幼心に気づいたことがあります。
「この記号のようなもの、これが文字というやつか!」
「この文字というやつを理解できれば絵の状況が分かり、面白く感じられるはずなんだ」
「おいらは文字が読めないばかりに、面白いはずのものを面白いと感じることができないのか!」
「十で神童、十五で才子、二十歳を過ぎればただの人」とはよく言ったもので、妙に鋭かった五歳児。
学びとは自分の楽しみを増やしてくれるものに違いない、と(そこまで慧眼だったわけではないですが)いうことがなんとなく分かった瞬間でした。
この時の経験は強烈に印象に残っています。
自分はそうでもないと感じているものに周りが楽しそうにしているときや感動しているとき、「分からない自分の方が未熟なだけなのではないか?」と疑う癖がつきました。
この姿勢で学生時代を過ごすことができたのは幸いでした。(もちろん一時期はご多分に漏れず反抗期もありましたが)
社会に出てから諸先輩と話をするとき、商品企画をしているとき、営業活動をしているとき、映画やお芝居を見に行った時、学生時代に学んだことが「こう繋がるのか!」と思った瞬間が何度もありました。
人間一人の頭に詰め込める知識には限りがあるのでしょうが、それでもなるべく知識があればあるほど、人生の楽しみや選択肢は増えていくのだと思います。
ぜひ皆さんも様々なことを積極的に学んでください。
ちなみに、5歳の時に巡り合ったマンガというのは「おそ松くん」でした。
※昨日お茶を入れた際に茶柱が立っていたのでパチリと写真を撮りました。