【理屈で覚える歴史②】聖徳太子4つの政策
飛鳥時代、聖徳太子(厩戸皇子)の行ったことは主に4つ。
603年 冠位十二階
604年 十七条の憲法
607年 法隆寺建立、小野妹子を遣隋使として派遣
当時お隣の大国中国は「隋」。
天子という王様がいて、それを支える優秀な官僚がいました。
天子の命令を官僚が形にし、全国に伝えていくという強力なピラミッド体制が敷かれていました。
このような社会システムを「律令体制」といいます。
この律令体制により、隋は強大な国として東アジアに君臨したのです。(その後の唐の時代に律令体制は全盛を極めます)
官僚になれるのは科挙という試験をパスした人で、家柄にとらわれることなく実力のある人たちが天子を支えていました。
土地も人民も天子が管理する「公地公民」を行うため、戸籍の整理が進みました。
戸籍を作ることにより、どこにどういう人がいるのか、人々がどのくらいの土地を持っているのか、といったことが把握でき、徴税や徴兵を行いやすくしました。
それによって国土が富んで強力な軍人が育つ軍事大国が隋(その後の唐)でした。
この隋と対等に付き合うために、聖徳太子は考えます。
天皇を頂点にし、それを支える優秀な官僚を置き、全国にまで天皇の命令が行き届く仕組み。
つまり日本でも律令体制を実現させようと。
そこでまず行ったのが冠位十二階です。
これまで朝廷の重職は家柄で決められていましたが、実力による登用を図ります。
そして、その官僚たちが勤勉で道徳的でなければ国は成り立ちません。
そこで、官僚たちが守るべき法律として「十七条の憲法」を作ったのです。
さらに当時は仏教を取り入れていない国は野蛮な国と思われていましたので、当時の最先端の仏教技術を使って法隆寺を建立します。
国の代表である天皇、それを支える役人たち、その役人たちが守るべき法律、仏教文化の導入。
ここまでの準備をして、いざ遣隋使を派遣したのです。
天皇中心の国家をつくるために、実力で役人を登用するための冠位十二階。
その役人が守るべき法律を定めた十七条の憲法。
仏教文化を誇示するための法隆寺建立。
全ての準備が整ってからの遣隋使派遣。
この理屈で覚えれば、聖徳太子の政策の並び替え問題にも対応できます。
※インスタでイラスト付きで解説しています。
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※歴史の解釈には諸説あります。
ここでお伝えしている内容はあくまでもテストや入試で点数を取ることを目的とした暗記の手段としてのストーリーです。
他の解釈、事実等に興味がありましたら自分でも調べてみましょう。
※イラストは「いらすとや」さんから利用させていただきました。